肥後どこさ

熊本駅から徒歩で五分ぐらいのところに二本木の旧花街があり、その中央に壮麗美、贅を尽くした遊郭として東雲楼があった。

「東雲のストライキ」とうたわれ、日本初のストライキが行われたのがこの東雲楼である。

私の子供のころは終戦から間が無かったからか、殆んどの店は休業していたが街並みは戦災にも合わずそのまま残っていた。

小学校五年の時同じクラスの友人で、ある遊郭の息子がいた。その家には家族だけが住んでいたが、遊郭独特の造りと風情は残っており、玄関を入ると正面に大きい階段があり、廊下や部屋にもそれなりの飾りがあった記憶がある。

なにか秘密めいた造りで、遊ぶのには最高の場所であった。休業しているとはいえ私がそんな所に何度も行く事を母は嫌がっていた。

私の生家は二本木を流れる坪井川の上流で、手毬歌「あんたがたどこさ」の中に出てくるせんば「洗馬」にあった。

川のすぐ上流には熊本城がある。つまり、川がそのまま城の外堀となっていた。洗馬という名前は、近隣から荷物を運んできた馬をこの場で洗っていたことから、この名が付いたと聞いていた。疲れた馬を乗り換える機能もあったようで、花街ではなかったが、川を挟んで「研屋」「綿屋」「司」などの大手の旅館が有った。すぐの路地を入ったところに芸者の置屋があり、何故か「検番」と呼んでいた。検番と言えば組合だから、当時は普通の置屋になっていたように思う。

毎日三味線の音が聞こえ、夕刻ともなれば座敷に呼ばれた芸者達がいそいそと出かける姿が見られた。当時の芸者は美人が多く、我々小汚い子供を避けていたが、顔見知りになり気分が良ければ、からかうこともあり、お菓子等をくれることもあった。

家の前には米の取引所「定期場」と少し先に魚の卸売市場があり「朝市」として賑わっていた。

このあたりは商人の町、塩屋町、鍛冶屋町、魚屋町、米屋町、呉服町、唐人町、桶屋町、職人町、中職人町、電信町と続き、熊本城に近かった為、洗馬、堀端、船場などの地名が残っていた。今は殆ど新町に変わったが、惜しいことをしたように思う。子供ながら物語の町に迷い込んだような、ときめきを感じる場所であった。


益田富治