祖母の死

 ことし、おばあちゃんが死んだ。私は20歳半ばになるまで親族の死に立ち会ったことはなかった。葬式に出たことはある。しかし一連の行事を体験するのは初めてだった。親族だけの葬式は真宗大谷派で、それはじいちゃんの選択だった。私は親鸞を少し齧っていたためなんだか少し感慨深いものがあった。おばあちゃんは長崎の出身で水夫の父と一緒に五島へ越したそうだ。かっこいい人だったんだよと最近は会うたびに言っていた。キリスト教徒は島の上の方へ住んで私たちは港のそばで暮らし、学校でもキリスト教徒とは透明な壁でもあるように関わりはなかったと言っていた。水夫のお父さんがメキシコで買ってきた派手な服や色とりどりのお魚のおみやげが何よりも楽しみだったそうだ。でも戦時中は食糧を得るために派手な服と交換して、他人がおみやげの派手な服を着ているのを眺めていたらしい。


 私はその話が可笑しくて笑っていた。私が22歳のころまで祖母とは車で2時間程度離れたところで暮らしていて赴くのは年に2 回程度だった。ボットン便所のある平屋で広い家ではなかった。もう今は無くなってしまったけど私にとってとても懐かしい場所でもう一度あの空間に身を置けたらそれほど嬉しいことはないだろう。私と祖母のコミュニケーションはいつもどこかぎくしゃくしたものだったが帰り際にいつも手をしっかりと握って頑張ってねと言ってくれればコミュニケーションはそれで十分だった。おばあちゃんは体が弱かったから体のいろんなところの骨が耐えきれずに折れてしまった。だから最後の10年くらいはいつも車椅子に乗っていたと思う。でも会うたびに力の入っていない手で私の手を握ってくれた。最後まで頭が明晰だったから、私の家の近くに引っ越してきてからもいろんな話ができて楽しかった。


 葬式の日に私は泣かないと思った。それが身近にあることを頭ではいつもわかっていたからだ。 でもリモートで参席する母の姉のためにスマホでおばあちゃんへ花を添えている時を撮影しているとき画面に映る母の姉が顔を歪めて泣き出した時、わたしの目から涙が溢れ出した。それはその日の間なかなか止まらず、日常生活で泣くということがほとんどない私は家族の前で戸惑っていた。私が覚えている祖母の話は終戦時に長崎市を通った時に原爆の惨状をその目で見たと言った話だ。今でも頭に残っていると。忘れないように。


湯川亀太郎